人間note

思ったことを書いてます

シンジは、逃げてよかった。

ちゃ

今回は、エヴァの話です。

僕は、8年前くらいに漫画でエヴァを読んでいて、
初めてアマプラで映画版を見ました。

なので、ストーリーはある程度わかっている状態だったのですが、
当時は、おそらく思っていなかったことを思いました。

それが今回の「シンジは、逃げてよかった。」です。

物語の始まりで、シンジが父のいるネルフという機関に呼ばれ、
そこでエヴァに乗れと言われる。
初めは、乗れないと拒否するが、「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」と
乗ることを決意し、初号機に乗り、使徒と戦う。

僕が言いたいのは、ここで逃げてよかったという話です。

そもそも急すぎる。

大きな決断を迫るわりに、「今、決めろ」と無茶苦茶なので
そんな要求に応える必要がない。

つまり、拒否することは逃げることではなく、当然の権利である。
その権利を行使することで滅ぶ人類なら滅んでしまった方がいい。

それに、最終兵器は抑止力のためにあるものであり、
それを使わないといけない状況の時点で、負けである。

何故なら、自分の陣営に最終兵器と言えるものがあるのなら、
相手にもあると考えるのが必然だからだ。

これは、エヴァに関して言えば、使徒に文明がないので違うと思うが、
最終兵器とは、そういった立ち位置であって、後がないことを示している。
つまり、ギリギリの戦いをしているということであり、ほぼ負けということだ。

少し脱線してしまったが、
僕が言いたいのは、シンジは逃げて良かったと思うし、
むしろ、そっちの方が自然な反応であるということだ。

以上です。

褒められるとやる気なくなる。

ちゃっす

今回は、邪魔すんなっていうことを書きたいと思います。

 

子どもを育てる上で褒めて伸ばす教育というのが言われています。

これは、家庭内だけでなく、学校でも同様に言われます。

確かに貶されるよりかは、良いと思いますが、僕の感覚で言うと邪魔です。

 

もちろん、褒める方の人に悪意や悪気がないこと、皮肉で言っているわけではないこともわかっている上です。

というのも、内在的なモチベーションでやっていたことを褒められることで、
外的影響によるものと錯覚を引き起こしてしまう気がするからです。
好きな物事ほど、それが怖くなってしまいます。

熱意があるほど顕著です。

好きだからやっていたことが、褒められたいからやるにすり替わってしまうからです。

前者は、その行為自体がゴールで、後者になると良い結果がゴールです。

つまり、ゴールを遠ざけてしまいます。

自分でも、どちらかがわからなくなっていき、自分がしたいことと求められるからやっていることの見分けがつかなくなります。

これの例として、勉強があると思います。

初めのうちは、知ることが楽しかったり、問題を解くこと楽しかったりしたはずが、
勉強をしているうちに褒められるようになり、点数を求め始めます。

その究極系がカンニングです。

本来は、その答えに行き着く過程や、何故そうなるのかが大切なポイントなはずなのに、
正しい答えを書き写すことが求められるテストにおいて、ブラックボックス化していても構わないことになってしまいます。

こうなると解き方を知っているか?答えを知っているか?の暗記物になってしまいます。

そうすると元来の勉強への楽しみは失われ、勉強へのプライドもなくなり、求められる学習をするようになります。

興味のないもの、苦手なものが誰しも往々にしてあり、乗り越えることができなかった人は、勉強そのものに苦手意識を持ってしまったり、勉強をやらされるものと定義づけしてしまう。

これは、とっても寂しいことです。

褒められると嬉しくなる。

これ自体は、いいことでも本質をずらしてしまう。

それを感じてしまうから、褒められるという他者の評価が邪魔になる。

だから熱狂的なファンの多いものは、褒められないものだ。
逆に社会性の強いもの(学問)は、熱狂的になる人は少ない。

国民のほとんどが一定時間、学問に時間を費やしながら、学者を目指す人は数%だろう。

このことから、ある程度放置してあげてほしい。

それこそがその人の好きを伸ばすはずだ。

 

 

あとで困ればいい。

ちゃっす? 

今回は、あとで困ればいい。を書いていこうと思います。

 

これは、僕がすごい好きな言葉で
元々は「ぼのぼの」のアライグマくんが言った言葉です。

後のことを考えて行動できない、ぼのぼのに対して
「あとで困るなら、あとで困ればいいじゃないか?」
と言いました。

ぼのぼのも納得しましたが、僕も感心しました。

そもそも「困る」とは、状態で状況ではありません。
未来に起こり得る状況に対して、困るとは限らないということ。

テスト勉強しなくても、困ったり、焦るのは、テスト前までです。
いざ始まると、やるしかないので悩んでいる暇はないです。
で、返ってくると案外悪い点数じゃないことも多いと思います。

それに「これをやったらあとで困るぞ」と思いながらやれば
実際困っても、「やっぱり、困ったわ」と他人事のように捉えることができて、
幾分か、楽になります。

あとで困ることを憂いて、何かをやめてしまうことは、もったいなく思います。
人が想像する未来への不安の9割は、実際には起こらない。
ほとんどの確率で起こらない不安を人質に、自分のしたいことを止める必要はない。

もし、それでも先の不安を考えてしまうなら
やらない理由にしているだけなので、本心ではやりたいと思っていない可能性がある。
この理由もまた、未来への漠然とした不安や焦りが原因だろう。

学校は、無駄でいい。

こんにちは じょーじです。

 

今回は、学校は無駄でいいんだという
僕の叫びを書いていきたいと思います。

 

まず僕は、2000年生まれです。

そして、小中学校は、公立に通ってました。

以上のことを踏まえて、読んでいただければ幸いです。

 

 

学校の現状

 

学校と教育は、切り離せないものになっています。

しかし、そもそも学校に重荷を背負わせすぎのように感じます。

 

学校は、バランスを取るのが難しい。

教養と授業を楽しくするバランスが。

そこでクラス制があります。

クラスで人間社会を学ばせ、

授業は学びたくなるさわりだけでいいように。

 

これを可能にしないのは、学校への認識のズレでしょう。

世代や価値観が保護者の方達、学校側や勤める先生方、政府の間で統一されていない。

そして、クラスを持つ先生が部活や授業を持っている点も挙げられます。

忙しすぎる。業務だけでなく、対人間の数が多すぎる。

神経を使う仕事に使えなくなるほどの疲労を溜めた状態での業務は、地獄です。

なぜ、地獄かって? 自覚しているからです。

満足なパフォーマンスが出せないことに。しかも相手は、子供。

取り返しのつく相手とは、考えられない。

行き着く先は、自己嫌悪。

もちろん、こなせる先生もいるでしょう。

しかし、その人が向いている、優秀、恵まれているの三拍子が揃っている場合のみです。

ここまで、全て僕の想像です。

 

そこで、別の種類にするのがいいのでは?

というのが僕の提案です。

クラス教員、授業教員の大きく2つに

クラス教員は、クラスを持つ、集会、風紀の担当。

授業教員は、授業だけの契約社員。近い学校をいくつも回る。

なんてのは、外野からの合理性を求めたもので

実際には、こんな簡単ではないでしょうが、

こんなのもあるよー程度で大丈夫です。

 

本題

 

学校は、将来役立つことを教えていないとか

言われていますが、僕はそれでいいと思います。

正直学校は、子供が集まり、社会を形成するだけの場。

そういった意味では、勉強はオプションです。

という価値観で僕は学校に行っていたので

ちゃんとしたことを教えられた日にゃ堪ったもんじゃない。

しかもそんな大切な時期に。

僕は、勉強せず、部活(サッカー)したり、バスケしたり、友達と喋ったりしてました。

それは、僕にとって学校は、はなから無駄なことや非合理なことが多いけど、

将来、仕事になったり、役に立つとは思えないことに時間を費やすことができました。

これがもし親も学校も先生も超合理的かつ正論ばっかだったら、

こっちまで変に考えすぎて、時間のコスパを考えてしまったと思います。

 

さっきまで書いていたことと違うかもしれませんが、

学校は、カオスでいいのではないでしょうか?

それも含めて社会や人間を表しているし、

世代によって、属しているグループ(保護者、教員、子供)によって、

認識やあるべき姿、願望が違うし、

そのグループの中でも個人によっても異なるということが自然なのかもしれません。

そういった意味で全会一致になることはないが答えを求め続けなければならない。

学校は、常に社会問題の最前線にあるのかもしれません。

 

では、では